ペトリコール

 

 そういえばわたしもルッキズムに縛られている。そうなってしまったと最近気づいた。大学受験の勉強をしているときは洗顔すらまともにしていなかった。大学生になるというタイミングで留学中の姉が自宅宛に通販で化粧品をいくつかプレゼントしてくれた。今思うとすごい姉だ。留学中でバイトもしていたとはいえ日本にいる時より給料は少ないはずだった。アイブロウ、アイライナー、単色のアイシャドウ、リップ。他にも数点あった気がする。何もわからないわたしにメイクの最初の機会をくれてありがとうございました。

 それこそ1限から必修の授業が入っていた1年生のわたしは、一気に色々なことをしてもどうせ続かないだろうと思って、洗顔と最低限のスキンケア、それに日焼け止めを塗ること、この3つをひとまず1ヶ月は続けてみようと思った。ノーメイクだ。その状態で髪だけ巻いて通学していた。入学してから少し経った日、早速できた友達に「メイクとかするの?」と聞かれて「今はまだよくわかんなくて」という曖昧は返事をしたことを覚えている。

 そこから少しずつメイクする部分を増やしていった。2週間から1ヶ月に1部分ずつ。下地を塗るところから始めて、アイブロウやアイシャドウの使い方を覚えた。実は最近までわたしの生活にアイラインを引くという工程は存在していなかったのだ。元の顔が現在の日本の流行に近くて、悩むほど手を入れずとも自分の満足する程度に仕上がるようにはなっていたから。アイラインもなければシェーディングもハイライトもチークもない。本当に適当だった。ある程度やればなんとかなってしまっていた。

 1年生の冬のある日、1限のグループワークの授業中に「今日ギリギリに起きたからノーメイクなんだよね」というグループメンバーの言葉を聞いた。その言葉を聞いてから最悪ノーメイクで家を出てもいいんだと驚いてしまった。驚いた自分にも驚いた。1年前までろくにスキンケアもしていなかった自分がメイクをしないと家を出れないようになっていた。その言葉を聞いてから1限の日はノーメイクで通学することが増えた。昼休みにトイレの化粧室でメイクをして、夕方からの部活の時間にはいつものメイク後の顔に戻れるようにしていた。

 洗顔もしなかったわたしの中に発生してしまった「メイクをしなければ家を出てはいけない」という強迫観念にも近い思考は今でもわたしの中に蔓延っている。自分を楽しい気持ちにして外を歩けるようになるメイクという日常行為は、いつの間にかわたしの中でなくてはならないものになった。そうあれば楽しいというだけのものだったはずなのに、いつからかそうでなくてはならないものになってしまった。

 体型に関してもそうだ。ずっと痩せていることを指摘されるのが嫌だった。普通になりたいと思っていた。そう言われすぎたせいで痩せているということが自分の一部のようになってしまった。もう取り外せない。こうでなくてはならない。きっともう戻れないところまできている。痩せるための食事制限は行っていないが、いつかそうしなくてはならなくなった時、わたしはどこまでも自分を追い込んでしまうのだと思う。だからおすすめタイムラインに流れてくるダイエット情報や体型に関する脅迫的な言葉はアカウントごと全てブロックしている。自分の体型のおかしさに自分が気づきませんように。自分で自分を苦しめませんように。

 自分で自分を可愛いと思ってしまってから、それが確かな評価に変わってから、可愛いということも自分の一部になった。そうでなくては自分ではない。ノーメイクの自分を見て微妙な気持ちになるのもこれが理由なのだと思う。可愛くて痩せていなければそれはわたしではないのだ。きっと本当にもう戻れない。今すぐ国外に飛んでルッキズムに縛られない生活を送らない限り今後もわたしはメイクをしなければ家を出たいと思えないし体重のこともずっと気にし続けるのだと思う。ただでさえセルフネグレクト気味で自分のご飯を買うことも嫌なのに、望んで自分に食事を許せなくなったら本当にどうなっちゃうんだろうね。想像もつきません。苦しいんだろうな。

 斉藤壮馬さんの『パレット』という曲が好きです。それぞれの曲に特定の好きな部分というのがあります。『パレット』でいうならここ。

大丈夫

いつかきっと見つけ出すからね

この機能初めて使いました。あってるのかな?出典とか書いたおいた方がいいんでしょうか。

 

 EveくんとSouくんの『フェイク』という曲も好きです。それの好きな部分はここ

欲しかった答えは返ってこない

勘違いしてるのは自分じゃない?

どうして好きなのか理由を説明しろと言われるとそれはそれで難しいんですが、なんとなくずっと好きです。

 明日は晴れるんでしょうか。今日は一部でゲリラ豪雨が降ったとか。わたしはやはり靴が冬用のショートブーツしかないので雨の日はそれをレインブーツとみなして履いています。もう靴底がすり減ってヒールの空洞部分が見えてきている。秋に買ったばかりなのに。毎日歩くし毎日履くから消耗も早いみたいです。

 食パンを焼いて食べたい。おなかすいた。深夜です。

 明日も大学。

 イカゲームを見ています。気になってネタバレを調べました。個人の事情をいろいろ知ってなるほどなと思うと同時に、バズるのはこれじゃなくても良かったのでは?なんてちょっとひどい感想も生まれてしまいました。でもまだ最後まで見切ったわけではないので最終話まで見た時同じ感想が出てくるのかどうかですね。自分でも興味があります。

 同じことを何回も言ったり文章に起こしたりするのは、それを誰かに言いたくてやっているというよりはその思考を言語にする過程で発生する快感を追って浴びているという方が正しい気がします。言葉になる瞬間のあの独特な快感を味わっているだけです。だからまた言ってるなって思っていてください。わたしもこれは複数回目だと思いながら喋っていることがたまにあります。

 ピュレグミのレモン味を大人買いした。最近10円ほど値上がりした。悲しい。美味しいから上がったのかな。でもわかる。美味しいもんね。1袋を10分ほどで食べ切ってしまうので注意が必要です。どれだけ買ってもすぐなくなる。鞄の整理をしていたらピュレグミのゴミが一気に3つ出てきたこともあります。多すぎる。でも美味しいもんね。仕方ないよね。

 これは今何文字ぐらい書いたんでしょうか。

 2680でした。ちょっと多めかな?読むのは一瞬ですが、一文字ずつスマホで打っていることを考えるとすごい労力ですね。2680回スマホをタップしていることになります。予測変換があるからもう少し少ない?昨日のものは眠気に耐えながら何かに抗うように書いていたので正直あまり内容を覚えていませんでした。読み返してこいつも大変だなと他人事に思ったぐらい。今日のことも明日はあまり覚えていないんでしょう。そんなもんです。今書いた文章がどうであれわたしは明日起きてちゃんと大学に行かなければいけない。そのあとバイトに行ってきっとまた腰痛に耐えながら数時間過ごします。疲れたね。明日の話をすると枕詞のように疲れたが出てくる。いつになったら疲れなくなるんでしょうか。数十年後?

 タイトルはわりとずっと適当です。思いついた言葉をそのまま打ち込んでいるか、目に入るところにある文字をさくっと拾って書いている気がします。今日は何になるかな。タイトルをつける時の気分次第です。

 電池残量の減りがあまりに早すぎて困っています。明日は大学に行ってそのまま流れで1日を過ごし、買いたいものを買って、また翌日のことを考えながら寝ます。

 明日も交通事故に遭わず健康に過ごせますように。腰痛が治りますように!良い1日を!

ドラマチック!

 

 高校生の時、学校を休む友達の代わりに授業を本気で受けてメモを取りノートの写真を授業時間が終わるたび友達に送信していた。健気な高校生だった。その友達学校やめたけど。

 今日さしていた折り畳み傘の骨が歪んだ。もともと1箇所歪んでいたのに、さらに歪な形になってしまった。新しい折り畳み傘を買いたい。収納用の袋もついた折り畳み傘。雨が寒色のイメージだからなのかたいていの傘は紫色だったり水色だったりして、わたしの好みのものはいまだに見つかっていない。どこにあるんだろう、わたしな好きな折り畳み傘。

 靴を買いたい。これはもうずっと思っている。いまは冬用のショートブーツと夏用のサンダル、そして穴が空いた黒のスニーカーを持っている。穴が空いているから履けない。ブーツは暑いしサンダルはまだ早いこの時期にスニーカーがないのはかなり痛い。靴が欲しい。スニーカー。同じシリーズの同じサイズでいいからとにかくスニーカーが欲しい。

 今日の夜中までの課題を昼の授業中に書いて出した。昼間は授業があり、夕方から夜までバイトの予定だった。授業時間内にやり終えようと決めたわけではないものの、ダラダラ考えてダラダラタイピングをしていたら描き終わってしまった。単位とれるかな。とりたいです。

 2:19

 自分を知ってもらうために手っ取り早く自分の内情を開示する。わかりやすい。わたしの周囲の人がわたしのどこを気に入って今も会話をしてくれているのかはよくわからないけど、なんらかの部分でそこにいてもいいと判断されるような人間でいることができているのなら、それ以上深く考えることはあまり意味のないことなのだと思う。自分の何が好きなんだろう。とはいえわたしも友達のここが好きだと明言できる場合は少ない。結局誰だっていいのだ。でもそこにいるのはその人だ。わたしの好きな言葉、「君じゃなくても救われていた。でも救ったのは君だった」に通ずるところがある。別にあなたじゃなくてもこの穴は埋まる。たらればはいくらだって積める。でも今この瞬間わたしの隣にいるのはあなたなのだ。これからもよろしくね〜

 2:24

 部活の人間と馬が合わなくなってきた。わたしのすぐ近くにいる友達は主将や副将などそれぞれ重要な役割を担っている人たちばかり。当たり前だけど、話が合わない。考え方も違う。「責任のある人間がそんなことするわけにはいかないから」という言葉で自身の行動を律している場面を何度も見てきた。わたしはそうはあれない。だんだんとひずみが生じてくる。わかってはいたことだけど疎外されるとやっぱりそれはそれで悲しいのだ。わたしが自分でわかってやっていたことでも実際直面してみるとやはり悲しい。詳細は書けないにしても、感情の名前が後悔だった場面も複数ある。もうあんなふうには頑張れない。まだ友達でいてくれるだけありがたいと思うべきです。あの人たちがいなかったらわたしの周りには友達がほとんどいないことになっちゃうから。

 新入生がまた多く入ってきた。これ以降わたしはどんどんあの空気感から疎外されていく立場になる。わたしが選んだ。自分でそうなるとわかっている。考えていくとその場所でうまくやってこれなかった自分が嫌になる。嫌なことから逃げているだけなのか、向き合うべき事柄なのか、自分が弱いだけなのか、環境が本当たあっていないのか。わたしがこのまま逃げ続けることでいつかの未来のわたしも踏ん張れなくなってしまうのではないか。でも大好きな友達は大学やめた。1年前とじゃ自分の状況も周囲の環境も全然違う。置かれた場所で咲けなかった自分をどう捉えるのか、最近はずっとそのことばかり考えている。

2:34

2024/05/06

2024/05/06

 明日までの課題が終わってない。手もつけてない。疲れた。

 自分の日常を数百字で毎日書いてる。気がつくと「疲れた」「頑張ろう」「乗り切ろう」を連呼していて、なんだか自分もつまらない人間になってしまったと思った。何にでもなれるはずだったのにね。超えたい人がたくさんいる、と豪語していた自分が可哀想になってきます。

 明日は絶対大学に行かなきゃいけない。そろそろちゃんと春休みと区切りをつけて新しい学期を始めたほうがいい。ずっとダラダラしてるだけの生活から逃げたい。何から逃げているのかよくわからなくなってくる。

 今日、PLAZAの前を通りかかった。不仲の父にその店舗で誕生日プレゼントを買ったことがある。既製品のびっくり箱。開けると動物が勢いよく飛び出してきて、わたしの代わりにハッピーバースデーの曲を歌ってくれる。小学生の時に渡したそれは高校生の時リビングのゴミ箱に捨てられた。きっとおもちゃの仕掛けが壊れていたのだと思う。わたしは父のことをひどい人間だとずっと思っているにも関わらず、自分で誕生日プレゼントを渡して、数年後それを捨てられて勝手に悲しんでいた。せめて大事にしてくれてもよかったのにと思った。そんなことを思うぐらいなら自分から現状を変えればいいのに。ゴミ箱から救出したおもちゃは今でもわたしの部屋の引き出しに眠っている。

 今日は散々迷った挙句1人でチェーン店で寿司を食べた。今までは何か嫌なことがあるたびに散財するなんてどうかしていると思っていたのだけど、そんなことで明日も生きていけるなら安いもんかと思うようになった。1食1600円。1人で。高いね。日焼け止めも除光液も買った。偶然見かけた母の日のポップに感化されて、母にハンカチをプレゼントした。喜んでくれたのが嬉しかった。

 好きな人の声に感動できなかった。情報をしっかりと追わなかったわたしが悪いのか、わたしの今の精神状態が悪いのか、テレビに興味を持てなくなった家庭環境が悪いのか。とにかく好きな人の声に感動できなかった。声を聞いても歌を聞いても何も思わなかった。その人の歴史から考えるに今回の歌はファンにとってもアーティスト本人にとっても大きな意味を持つものになるはずだった。その大切な声に感動できなかった。わたしその人のこと好きなのに。

 定期的に置いていかれるような感覚に陥る。全部をずっと100%の熱量で応援し続けられないのはもうじゅうぶんにわかっているから、自分が可能な範囲で応援していようと決めていた。その結果がこうだ。とにかく疲れた。好きな人の声を聞いて感情が動かないのも、昨日のことを考えて憂鬱な気分になるのも、終わっていない課題を思い出して自分のミスに気づくのも、今からシャワーを浴びなければいけないのも。疲れた。疲れた。疲れた!

 きっと本当に人生というのはつらい時間の方が長いのだと思う。つらくない時間は儚いほど一瞬なのに、その一瞬の思い出が深ければ深いほど、濃ければ濃いほど、わたしたちは人生に夢中になっていく。あの時間があるのだから、あの瞬間があるのだから自分たちはまだ大丈夫なのだと錯覚してしまう。わたしもそうだ。自分に対して酷い言葉を浴びせながらも人生に夢中になっている。なんだかんだ言って生きることが好きだ。今でも早く死ねばいいのにと思っている。でも生きることが好きだ。自分のことが大好きで大嫌いなように、生きていることも大好きで大嫌いだ。早く死んでほしいと思いながらまだまだ生きていてほしいと思う。その矛盾も許してしまうぐらい、わたしはわたしという人間を愛している。大嫌い。大好き。早く死んで。ずっと生きて。まだ自分に見せていない景色がある。見てほしい景色がある。それは6月のライブだったり、発表されてもいないツアーだったり、電車の窓から見える夜景だったり、久しぶりだと感じる夏の匂いだったり、布団から見る天井だったり、海の匂いだったり、深夜の雪だったり、とにかく今まで見てきたものや見てこなかったすべてを自分に見てほしい。そしてわたしも満を辞して死んでほしい。早く死ね。明日も頑張ろうね。